知る人ぞ知る伝説のクリエイター中村光一。
高校3年生で自作ソフトのドアドアがコンテストに入賞。
以降堀井雄二らとドラクエ制作にも携わるゲームクリエイター話に欠かせない人物だ。
そんな中村が社長を勤めるチュンソフトに有野が潜入。
見どころ
高校生の頃にドアドアを作った中村光一。
ドラゴンクエストの制作にも携わったクリエイターの貴重な話が聞けるのはやはり見どころ。
そのドアドアに、有野も挑戦するが果たしてクリアなるか?
あらすじ
クリエイターズインタビュー
中村光一
中村光一について
1964年香川県出身。
1982年、高校3年の時、エニックス主催のゲームコンテストで自作ソフト「ドアドア」が入賞。
その後、19歳の若さで株式会社チュンソフトを設立。
「ポートピア連続殺人事件」、「ドラゴンクエストⅠ~V」のプログラムを担当。
1992年「弟切草」から自社ブランドを手掛ける。
以降は、プロデューサーの立場でゲームの開発に携わる。
サウンドのベルシリーズ、ダンジョンRPGなど常に新しいものに挑戦し続けている。
業界歴20年以上
インタビュー当時で業界歴20年である。
2020年を迎えた現在はすでに36年以上業界に関わっていることになる。
つまり、その当時39歳の若さにしてすでに20年の積み重ねがあったことになる。
初めて作ったソフト
中村は、高校3年生のときにドアドアを作ったという。
エイリアンを引き付け、ドアに閉じ込めていく思考型パズルゲーム。
その斬新なアイデアが評価され、当時エニックスが主催したゲームコンテストで、見事入賞を果たした。
ドアドアのヒント
当時ナムコから出ていたディグダグをヒントにしたという中村。
しかし、有野としてはピンと来なかった。
ヒントといっても、核になる部分の考え方をヒントとしたと中村は語る。
そのヒントとは、追いかけてくる敵キャラクターを固めて一気にやっつけるという爽快感を取り入れたことにあった。
ディグダグは別記事でも紹介した、ナムコの名作穴掘りアクションゲームである。
デビュー作が大ヒット
ファミコンのドアドアで、20万本は売れたらしい。
18歳ぐらいの人間がここまで大ヒット作を生むのは異例だったであろう。
ドアドアは瞬く間に大ヒット。
そこで得たロイヤリティを元に、中村は大学在学中、中村は19歳の若さで会社を立ち上げた。
19歳で会社設立
当時、ゲームセンターのゲームは良いものが多かったが、パソコンソフトやゲームソフトは面白い物がなかったという。
さらには、中村自身つまらないソフトをつかまされて腹が立ったこともしばしばあったようだ。
これなら自分で作ったほうが面白いんじゃないか?
だとしたら会社も自分で作ったほうがいいだろうと会社設立に踏み切った。
チュンソフト名前の由来は?
チュンソフトという会社名はどこから来ているのか?
実は単純な理由だった。
それは中村の学生時代のあだ名がチュンだったのである。
麻雀の「中」から来ているとの事。
ポートピア
中村は堀井雄二が制作したポートピアにも開発として関わっている。
交流のあった堀井雄二と手を組み共同で制作したポートピア。
ファミコンはつとなる、本格推理アドベンチャーゲームとして、大きな話題を呼んだ。
たけしの挑戦状
ポートピアとさんまの名探偵はどちらの方が早くリリースしていたのかと、有野が尋ねると、断然ポートピアの方が早かったという。
しかし、それ以前にたけしの挑戦状などは発売されていた。
そこから、中村もたけしの挑戦状をやったという話になり、有野からクリアできたのか聞かれると、「とんでもない」とクリアできなかったことを語った。
ゲームセンターCX第1回のときに有野も挑戦したゲーム。
理不尽なゲームバランスで伝説のクソゲーと呼ばれている。
そして、ポートピア発表後、プログラマーとして制作に携わったドラゴンクエストは空前の大ブームを巻き起こした。
伝説のRPGドラクエ。
その作品作りのきっかけとはどこにあったのか?
ドラクエ開発のきっかけ
中村と堀井は以前から交流があり、お互いパソコンゲームでRPGにハマっていた。
堀井はウルティマ、中村はウィザードリィというRPGだった。
そして、ポートピアの打ち合わせの際に、次にゲームを作るならRPGがいいよね?という話をよくしていたそうだ。
本格RPGを作りたい。
しかし、その思いを具現化するには、大きな問題点があった。
ドラクエの問題点
当時の仕組みはデータをROMカートリッジを使用し組み込む必要があり、セーブなどの機能を施すことはできなかった。
長編であるRPGをつくりには大きな問題だったのだ。
しかし、そこで堀井のアイデアで、パスワード方式にしてしまえばいいのでは?と一気に開発に踏み切る打開策となった。
マップ、戦闘、そしてストーリーと、様々な要素が入り込むRPGの礎、ドラゴンクエストは一体どのように制作されているのだろうか?
ドラクエの製作過程
ドラクエのストーリーやマップは最終的に堀井雄二が決めているという。
戦闘や魔法などシステム的な部分はスタッフがアイデアを出しているようだ。
ドラクエが愛される要因の一つは鳥山明による愛らしいキャラクターのデザイン。
キャラクターデザイン鳥山明
基本的にはドラクエ制作側から鳥山明に「こういうキャラクターを作ってください」と依頼する形だが、鳥山明から「こういうキャラクターはどう?」とアイデアを出してくれることもあったという。
人気キャラ「スライム」
今では大人気のキャラクター「スライム」はドラクエ制作側でもデザイン完成時に一番驚いたキャラクターだったようだ。
それも、依頼したものはベタっとした気持ち悪い物だったのにあんなに可愛いプリンのようなキャラクターで仕上がるとは思いもよらなかったと中村は語る。
音楽すぎやまこういち
すぎやまこういちがゲームの作曲を担当することになったのは、もともとゲーム好きのすぎやまが、ポートピアを一ユーザーとしてプレイし、アンケートハガキを送ってくれたことがきっかけだった。
堀井雄二、鳥山明、すぎやまこういち、そして中村光一と各界を代表するクリエイターが集結し、伝説のRPGドラゴンクエストが誕生した。
ウィンドウの発明
バトル画面などのウィンドウを作ったのが何を隠そう中村光一だった。
パソコンなどでスッと出るウィンドウが出始めの頃でそれを気に入った中村は、バトル画面に導入できないかと考えた。
これが採用できれば、前の画面を残しつつ、新しい情報を出していくことができるのでは?と考え、見事に作り上げたのだ。
RPG界のルールともいえるウィンドウは、当時のパソコン画面がヒントとなった。
ドラゴンクエスト名前の由来
最後の魔物であるラスボスが竜であることと、それを追い求めて冒険をするということから堀井雄二がドラゴンクエストと命名したと中村は語った。
シリーズ化の予定
当初からシリーズ化することは構想にあったのか?と有野が尋ねる。
堀井や他スタッフの考えでは、3ぐらいまでのイメージは考えたあったという。
ドラクエⅠの段階で、Ⅲのキャラクターメイクやパーティプレイはすでにイメージしていたが、当時のROMの容量やセーブができないというなどの難点でⅠの形式となった。
ドラクエマニア
こんなところまでやり込むの?というプレイヤーは意外にも多かったという。
その中でも、復活の呪文では想定していなかったことが起きた。
だれが発見したのか、復活の呪文で、野球選手やプロレスラーの名前などを連ねて強いステータスで復活できるなどがあった。
「くわたきよ はらしのずかな かはたはら いしい」でLV25の勇者。
「いのきばば つるたちようし ゆうりきふ じなみ」と入力するとLV26の勇者がそれぞれ出た。
さらにドラクエⅡでは、
「ゆうて いみや おうきむ こうほ りいゆ うじとり やまあ きらぺ ぺぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺぺ ぺぺ」
と入力で、LV48の勇者が現れる。
あれは、制作側としては、意図して作っていたわけではなく、数字を文字列に変換して情報としていたために起こった現象だったようだ。
中村自身もテストプレイを行ったが、しっかりパスワードをメモしてプレイしたとのこと。
その際にメモが間違っていて何度か悔しい思いもしたという。
多くのプレイヤーが嘆き、涙を飲んだ呪文の間違いは、作った当事者でもある中村も体験していた。
「ドラクエⅡ」のハプニング
制作してきた中でドラクエⅡが一番苦労したという中村。
Ⅱのときに初めてメインプログラムを3~4人で制作することになったが、そのときはまだ大勢で作るノウハウが無かったためトラブルが起きたという。
例えば、プログラムでバグが発生したときに、表面上は中村がプログラムをミスしているように見えるが、実は別のプログラマーが中村のプログラムを壊しながら突き進んでいて、ケンカになったこともあったと中村は語る。
ロンダルキアの洞窟
とにかく難しいと噂になったロンダルキアの洞窟。
どうしてそこまで難しくしたのかと有野は尋ねてみた。
実は、誰も最後までの通しでプレイをしていなかったという。
それもそのはず、ブロック単位でのデバックなどは簡単だが、通しとなると、30時間はかかってしまう。
それを不具合があるたびに30時間通しでデバックを行うのは不可能だ。
それが原因で、ロンダルキア到達時点ではこれぐらいのステータスがあるはずだと組んだ敵の強さも、通しで考えると難しいレベルになってしまっていたという。
ドラクエⅡでほとんどのプレイヤーが挫折を味わった、ロンダルキアの洞窟。
最終的なチェックが間に合わなかったことが逆に幸いし、その結果多くのプレイヤーを熱中させ、名作と呼ばせるほどの絶妙なゲームバランスとなった。
ドラクエブームの要因
当時はインターネットは無かった。
どうしても見つからないアイテムや人物についてプレイヤー同士が電話で聞きあったりしていたようだ。
ドラクエの醍醐味でもある謎解き。
その難しさがゆえに、ユーザー同士の話題の中心となり、結果ドラクエブームはさらに加熱し、どんどん広がっていったという。
好きなドラクエ
個人的には一番Ⅲが面白いと語る中村。
Ⅲは作っていてワクワクもしたという。
ドラクエが愛される理由
なぜこんなにドラクエは愛されているのか?と有野は尋ねてみた。
すると、単純に「面白いからじゃないですかね?w」と笑いながら答え、有野も納得していた。
優秀な仲間と共にドラクエという新境地を開拓した中村は、それに固執することなく、新たな分野に挑む。
それが、初の自社ブランドとなった、サウンドのベルシリーズである。
サウンドノベルのきっかけ
チュンソフトというメーカーとして、独立したいという希望があり、どうせ作るなら新しいものをと考え、作り始めたのがサウンドノベルだった。
テキストアドベンチャーというものが、その当時ではまだコンシューマー機から出ていないこともあり狙い目と考えたようだ。
そして、初のサウンドノベル「弟切草」が発売された。
チュンソフトのサウンドノベル第一弾ソフト。
洋館を舞台にカップルがさまざまな事件に巻き込まれていく長坂秀佳原作のホラー作品。
プレイヤーが選んだ選択肢により、次々と物語が変化していくという画期的なシステム
サウンドノベル制作過程
制作にはまずストーリーを整えるという。
分岐などについても先に用意し、ある程度揃ったところで演出などを制作していくようだ。
分岐も含めると10本近いストーリーを考える必要があったため、プロの作家に依頼することとなった。
そして、出会ったのが長坂秀佳だ。
長坂はもともとマルチストーリーの構想を持っており、開発への参加は積極的だったという。
かまいたちの夜
そして、その後チュンソフトから第二弾のサウンドノベルが発売される。
我孫子武丸が原作。
猟奇的な事件がテーマとなり、ホラーからミステリーへと方向転換した。
弟切草のユーザーからアンケートとして、ミステリーをやってほしいという声が非常に多かったという。
そこで、多くのミステリー作家に手紙を出したところ、我孫子武丸から良い返事がもらえたことがきっかけとなり、原作を書いてもらうことになった。
するとなんと、我孫子は中村たちも驚くほどのゲーマーであったのだ。
話をしたときにはとっくに弟切草も全部クリアしたとの事だった。
そして、自分だったらこうやりたいなど、すっかり意気投合したため一緒に制作していくこととなった。
隠しシナリオについて
ピンクのしおりは弟切草にもあったが、かまいたちの夜でも当然入れようと開発スタッフは全員一致だったという。
原作の我孫子はどう思ったのかと、有野は中村に尋ねてみた。
すると、我孫子もノリノリだったと笑った。
バッドエンディングを含めた全てのエンディングを見れば、ちょっぴりえっちなシナリオが展開される、ピンクのしおりが出現。
大人な雰囲気漂うこのストーリーをまだ見ていないというユーザーには、ぜひ挑戦していただきたい。
その後、再び長坂と手を組んでソフトを制作した中村。
その作品は「街」である。
いまだ根強い人気を誇るシリーズ第3弾の街。
再び長坂を迎えシリーズ初となる実写を採用。
渋谷を舞台に展開される8人のストーリーを上手く絡め、巧妙に描いた。
「街」発想の原点
元々渋谷に事務所のあった長坂は、スクランブル交差点で歩く人々を見て、それぞれの人にそれぞれのストーリーがあると考えたことから思いついた作品だった。
渋谷のスクランブル交差点ともあり、人の数はとてつもなく多い。
そこから、最初は100人の物語を作る予定があったが、30~40人ぐらいで、とてもゲームに乗らないと断念したという。
登場する8人の主人公、それぞれの物語が、他の主人公と巧妙に絡み合うストーリー。
それは、どのようにして作られたのか?
物語の作り方
それぞれの話が絡み合う仕組みはどのように作られたのか有野が尋ねてみた。
それは、8人それぞれの話は独立して書き上げ、それぞれの脇役などが同じイメージの人物であれば、同一人物にしてしまうなどして物語を繋げていったという。
映像に実写が採用された街。
そこにはゲーム業界の将来を見据えた中村の展望があった。
映像に実写を使用
映像に実写が取り入れられた経緯としては、ちょうど家庭用ゲーム機がROMからCDに変わっていった頃で、単純に容量が増えたことが1つのきっかけだった。
時代を先取りした実写という画期的な挑戦。
しかし、そこには大きな苦労も伴った。
実写映像の苦労
苦労の点として、中村は役者との制作についてを語った。
もともと、役者はセリフをしゃべってそれに伴う動きで表現をするというものを常日頃からやっているが、今回の場合は静止画として止まった状態で表現する必要があった。
中々良い表情にならずお互いに苦労したそうだ。
最初は動画として動きがある状態を撮影し、そこから画像として引っ張れば良いと考えていたが、そうすると、どうもピンと来るものにならなかったという。
その画像はどうしても動画を一時停止したものにしか見えず、早く再生してよといいたくなるようなものだった。
やはり、静止画として良いものを撮るには静止画の状態で最高の撮影をする必要があったと気付いた瞬間だったと中村は方語る。
静止画の難しさ、そして実写ならではの制作を圧迫する問題があった。
その問題とはスタッフの食事代だった。
毎食1,000円出しても結構な金額になるため、制作費を大きく圧迫していたと笑った。
しかしそこをケチると士気が下がるとしてそこは丁寧だったらしい。
映画やドラマの現場と変わらない制作体系。
登場人物は実に400人を超えた。
「街」に自らも出演
中村は自身だけでなく、スタッフはほとんど出演したと話した。
ゲームセンターの店員や警察官など制作費の都合上、多くの役にスタッフが配役されたという。
そして、登場する主人公の中には、有野もプレイして気になったというこの人の存在が。
ダンカンも出演
あの有名なダンカンも作中に主人公として出演。
有野はそこにばっかり気になってしまったという。
中村的にはシナリオの雰囲気がばっちりあっていたので起用したと語った。
中村の好きなシナリオ
ザッピングと呼ばれる主人公の切り替え
中村お気に入りのシナリオは、ひょんなことからお互い逆の人物に間違われてしまうという牛尾と馬部のシナリオだという。
秀逸とも言われる終盤のたたみかけは、多くのユーザーを興奮させた。
隠しシナリオ「花火」
登場人物8人全てのシナリオが終わると、隠しシナリオ「花火」が出現する。
お互い素直になれない父と子の悲しみ、そして切ない気持ちを上手く描いたこの物語に、多くのプレイヤーが感動し、また涙した。
常に新しいジャンルに挑戦
中村自身が高校生の頃、アクションゲームだけでなく、シュミレーションやアドベンチャーなど新たなジャンルが出てきて、今後どうなるのだろうかと楽しみだったという。
プレイヤーとしても新しいものにこだわってきた中村は自身が作る作品で、常にユーザーに新しい発見を体感してほしいという思いから新たな挑戦を試みるのだと語った。
チュンソフトはハズレなし?
おもむろに有野は尋ねてみた。
チュンソフトにはハズレがないと思うがなぜ?
すると、中村は答える。
「面白くなるまで作りこむから」
中村光一にとってゲームとは?
「人生の大半」
高校生からゲームを作ってきた中村にとってはまさに人生の大半をゲームに費やしたといっても過言ではない。
冨江慎一郎
風来のシレン生みの親。
不思議のダンジョンシリーズを世に知らしめた大ヒット作。
そのクリエイターに迫る。
冨江慎一郎について
1961年千葉県出身。
テクモで「キャプテン翼」を手掛けた後、1992年株式会社チュンソフトに入社。
「風来のシレン」シリーズの監督、脚本、絵コンテを担当。
意外なところで・・・
有野は別のインタビューでダビスタ生みの親である薗部博之に話を聞いていた。
その際に、冨江が作ったキャプテン翼のシステムが良いとマネをしていたと話していた。
冨江的には競馬は詳しくないからと思ったようだが、実は薗部も詳しくなく、薗部の友達が詳しかったことをしり、有野から「もしかしたら冨江さんがダビスタ作れてたかも」というと、「ちきしょーw」と悔しがっていた。
新システムのヒント
毎回構造が変わるダンジョンなど話題を呼んだシステムはどのようにして生まれたのか?
もともと、パソコンゲームのRPGでローグという作品が好きだった冨江やスタッフがこういう作品を作りたいとして始まったものだった。
ヒットした理由
ヒットした理由を冨江は「登場人物にドラマがあることだ」と語った。
ネットサルで対決
有野は冨江が開発したネットサルで対決することとなった。
シレンのキャラクターがフットサルをやるという奇抜なアイデアを元に生み出された、そのなもネットサル。
サッカーのルールに基づきつつも必殺技やアイテムなどゲーム性を重視。
自分でキャラクターを育成していくというシュミレーション要素も魅力の1つ。
この対決のため、有野は特別に開発段階のソフトを借り、チームを作ってきた。
有野のチームはゲームセンターCX、対する冨江のチームはトドで構成するチーム。
有野開始早々得点を許してしまう。
やはり力の差は歴然。
有野のボールは簡単に取られ、楽々ゴールを決められてしまう。
付け入る隙一つ無い展開が続く。
前半を終了し、5対0のワンサイドゲーム。
せめて一矢報いたい有野。
何とか1点を決める有野。しかし・・・
今のコンピューターですわ・・・w
なんと2点目も決める。しかし・・・
またコンピューターですわ・・・w
俺何もしてないw
しかし、ここで試合終了。
反撃もここまで。
結果は8対2とワンサイドゲーム。
僕のチームすごい強かったでしょう?と聞く有野に対して冨江は「えっ?」と笑っていた。
結果はありの惨敗だった。
冨江にとってゲームとは?
「ゲーム作りは楽しさ30%苦しさ70%」
冨江にとってゲームは楽しむものであると答えたが、作るという観点から言えば苦しさも大いにあるという冨江ならではの回答だった。
ドアドアに挑戦
本編にも登場した中村光一の輝かしいデビュー作。
ドアに閉じ込めるエイリアンにはそれぞれに性格があり、一網打尽を狙うにはそのアルゴリズムを把握しなければならない。
そして、あるテクニックがカギを握る。
通常一匹ずつドアに閉じ込めていくが、エイリアンをまとめてドアに閉じ込めるとボーナスが発生する。
今回は、そのボーナスの幻とまで言われた、6匹同時閉じ込めに挑戦する。
えっ?幻をやらすの?
有野、ドアドアは初体験。
果たして上手くいくのか?
挑戦開始!
今回の目的はステージクリアではなく、エイリアンを同時に閉じ込めること。
少ない数から慣れていき、コツをつかんでいくのが、攻略への近道。
あっ!罠があったんやぁw
様々な仕掛けが有野を襲う。
初ボーナス!
開始20分、ようやく有野にチャンスが訪れる。
そして、次の面で、3匹ボーナスのペロペロキャンディーが出現。
しかし、ボーナスを取り逃す。
まさに、有野クオリティ。
これ、しんどいなぁー
何度も失敗を重ねる有野、あるテクニックを身に着ける。
あるテクニック習得
そのテクニックとは、敵がドアに入ったら、半分だけ閉めて移動。
そうすることで、エイリアン同士の間隔を詰めることができ、一網打尽が狙えるのだ。
そして、そのテクニックを使いついに・・・
4匹閉じ込めに成功する。
しかし、またしてもボーナスを取り逃してしまう有野。
今回の目的は6匹閉じ込め。
6匹登場する13面まで辿り着くことができない。
4匹閉じ込め。
しかも、アイテムは全く取れないまま、終わってしまうのか?
助っ人の登場
ちょっとやらせてもらってもいいですか?と登場したのは、チュンソフトのゲームディレクター落合信也が助太刀に。
その後発売された携帯ゲーム用のドアドアを制作中だった落合は、いわばスペシャリスト。
果たしてその実力は?
すぐにやられてしまった。
実はそんなにうまくないという落合。
落合は汗をかきすぎて実力を発揮できず、部下の渡辺和也に行く末を託す。
渡辺は、携帯用のドアドアのデバッカーとして、バグがないかどうか何千回もプレイしている。
まさに日本一ドアドアを知り尽くした男だ。
有野が挫折した9面も難なくクリア。
幻達成なるか?
絶妙な引率を見せる渡辺。
そして、ついに6匹閉じ込めに成功。
幻のアイテムが出現。
すると、有野まさか、ここで手柄を取るように変わってくれとお願いする。
滑り台になっている罠に気付かずあえなく失敗。
これまで同様に、アイテム目前でミスを犯してしまう有野。
再び「中」が出現するのを待つが、またやられてしまう。
残すはあと1機、ここでミスをすれば、すべてが水の泡。
緊張が走る。
喜ぶ有野、しかし、6匹閉じ込めに成功したのは渡辺。
チュンソフト名作コレクション
チュンソフト名作紹介①
1985年「ドアドア」ファミコン
中村光一の処女作。
全50面からなるパズルゲーム。
軽快な音楽から可愛らしいキャラクターまで、すべてが中村の手によって作られた。
1985年「ポートピア」ファミコン
堀井雄二原作のアドベンチャーゲーム。
部下のヤスと共に、難解な事件の真相をつきとめていく。
虫眼鏡で太陽を見ると怒られるなど、随所に遊び要素も組み込まれていた。
1986年「ドラゴンクエスト」ファミコン
もはや説明不要ともいえる、ゲーム界を代表するRPGドラクエの記念すべき第一弾。
勇者ロトの血を引く主人公が、悪の化身竜王を倒し、世界に光を取り戻す。
1987年「ドラゴンクエストⅡ」ファミコン
前作から100年後が舞台。
大神官ハーゴンの野望を阻止し、世界平和を守るため、ロトの血を引く3人の子孫が、立ち上がる。
シリーズ初となるパーティ編成に加え、前作の4倍以上となる広大なマップで繰り広げられる大冒険は、さらにドラクエファンを熱狂させた。
1988年「ドラゴンクエストⅢ」ファミコン
シリーズ最高傑作との呼び声も高い、ロトシリーズの完結編。
さらに進化したフリーパーティシステムや、好きな職業に変えられる転職システムなど、自由度が充実。
多くのユーザーが何度も冒険を堪能した。
発売日には店頭に行列ができ、その模様がニュースとしても報道され、社会現象となった。
チュンソフト名作紹介②
1992年「弟切草」スーパーファミコン
デート帰りの楽しいひと時を過ごす主人公とその恋人奈美に突如不幸が襲いかかる。
2人が偶然訪れた洋館で、様々なストーリーが展開される。
1993年「トルネコの大冒険」スーパーファミコン
毎回ダンジョンの構造が変化するという不思議のダンジョンシリーズ第一弾。
ドラクエⅣに登場した武器やトルネコが主人公となり、不思議のダンジョンに眠る数々のお宝を求め大冒険する。
1994年「かまいたちの夜」スーパーファミコン
閉鎖された雪山のペンション「シュプール」で起こる、不可解な事件を描いたミステリー。
選択肢によって被害者がどんどん増えていき、プレイヤーをさらなる恐怖へと突き落としていく。
1995年「不思議のダンジョン2 風来のシレン」スーパーファミコン
不思議のダンジョンシリーズ第二弾。
テーブルマウンテンの頂上にある、太陽の大地を目指し、主人公シレンが旅に出る。
幻のアイテムを求め、多くのプレイヤーが熱中した。
1998年「街」セガサターン
渋谷を舞台に、8人の主人公の5日間を描いたサウンドのベル第三弾。
ターゲットを上手く脅迫していく七曜会や、爆破予告の犯人を突き止める、オタク刑事橋村など、バラエティに富んだシナリオが用意されている。
2002年「かまいたちの夜2」
前作かまいたちの夜から、1年半経ったある日、今度は孤島の三日月島が舞台。
キャラクターのシルエットを3DCG化し、背景に実写を混ぜるなど、ヴィジュアル面でも進化がうかがえる。
2002年「トルネコの大冒険3」PS2
プレイステーション2にて発売された、トルネコシリーズの第三弾。
今回は南の島が舞台。
シリーズ初となる地上マップを歩き回り、様々な町や不思議なダンジョンと出くわすシステムが採用されている。
クリエイター名言
中村光一
「人生の大半」
冨江慎一郎
「ゲーム作りは楽しさ30%苦しさ70%」
動画を見るには?
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有野のまとめ
ドラクエ作った人がまだ現役でやってるってのはスゴイですねぇ!
さらに常に新しいジャンルを作ろうとしているのがまたスゴイ。
高校生の頃にドアドア作ったってのがやっぱり驚きやなぁ・・・
今回の挑戦でドアドアやったけどアカンかったから、19歳のにいちゃんの頭脳に負けたってことやなぁ。
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